とんぼの王さま
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耳元で王さま、と声がした。
ぼくはあたりを見回した。目に入るのは草原と山々と青い空と白い入道雲だけだった。街から遠く離れた山間の、八月の湿原の午後の風の中をとんぼがちらちらと飛んでいた。
空耳かな、といぶかしるぼくの耳元にまた聞こえた。
「王さま、こちらです、王さま」
声といっしょに一匹のとんぼが目の前にきた。
「おわかりいただけましたか、王さま」
茶色っぽいとんぼが目の前に静止した。
「王さま、まだお気づきいただけませんか」
とんぼは目の前でぐるぐる回って見せた。やっぱりとんぼだ。しかも王さまだと言う。
「お、おうさまってぼくかい？」
ぼくは人差し指を自分に向けた。
とんぼは軽く頭を下げながら言った。
「はい、そのとおりでございます」
「人違いじゃないの？」
「いいえ。王さま、王さまは我らの王です」
とんぼの王さまって何だろう、ぼくがとんぼに見えるのかしら、と考えていると、とんぼがぼくの人差し指にとまった。
「さっそくでございますが、王のお努めをお願い申し上げます」
とんぼは上品に頭を下げると、人差し指から飛び立った。高く飛び上がるとぼくの上を大きく回りはじめた。回りながら湿原の隅々まで届くような大声をだした。
「我らが王が来ませり、我らが王が来ませり」
とんぼは何度も何度も回った。回りながら何度も何度も叫んだ。
ぼくはとんぼを見上げたり、湿原を見渡したりきょろきょろしていると、何匹かのとんぼがやってくるのが見えた。縦一列になって飛んでいた。
やってきたとんぼ達は五匹いた。彼らはぼくのまわりの草の葉にとまった。頭を下げてかしこまっているようだ。
ぼくを王さまと呼ぶとんぼが上から降りてきた。ぼくの肩にとまると集まった五匹のとんぼを見渡した。
「赤ノ谷の、黄ヶ岳の、青ノ森の」
五匹のうちの三匹が飛びたって空中でとまった。
三匹の真ん中の一匹が前に出ると目玉の頭をぎこちなく下げた。
「王さまご報告いたします。日の出にドードー淵がドードーと鳴きました。」
肩のとんぼがぼくにささやいた。
「赤ノ谷のです。ねぎらいの言葉をかけてください」
あ、ああとぼくはうなずいた。
「ご苦労さまでした」
赤ノ谷のとんぼはぎこちなく頭を下げた。続いて前に出てきたとんぼはちょいと頭を下げた。
「王さまにご報告。お昼に、ガガリ峰をガガリ雲がかすめて流れました」
「ガガリ峰なんて知らないぞ。ドードー淵だって知らない」
ぼくが顔をしかめると、肩のとんぼはささやいた。
「王さま、ともかくねぎらいの言葉をかけてください」
あ、ああとぼくはうなずいた。
「ご苦労さまでした」
黄ヶ岳のとんぼはひょいと頭を下げた。
続いて出てきたとんぼは丁寧に頭を下げた。ぼくもつられて頭を下げてしまった。
「王さまにご報告いたします。夕暮れにバンデラの樹にバンデラの香りが強く香りました」
バンデラの樹ってなんだろう、と思いながらぼくは青ノ森のとんぼをねぎらった。
「ご苦労さまでした」
青ノ森のとんぼは丁寧に頭を下げ、他の二匹と一緒に草の葉にとまった。
ぼくは肩のとんぼにささやいた。
「今のこと、何にもわからないよ。それでもいいのか？」
「王さま、ご心配なく」
肩のとんぼはぼくにささやき返すと大声をあげた。
「白山の、黒池の」
大声にあわせてゆっくり飛び立った二匹のとんぼがいた。二匹は並んで空中にとまり、並んで静かに礼をした。
「王さま、申し上げたきことがございます」
左側のとんぼが言った。つづいて右側のとんぼが言った。
「王さま、我らは十分に強くなりました。山を越え平野をわたることができます」
「王さま、天象も良いようです。ドードー淵が鳴き、ガガリ雲が流れ、バンデラの露が湧きました」
二匹は声を合わせていった。
「さぁ、王さま、ご決断を。ご決断をお願い申し上げます」
「決断って、何を決めるんだい」
「我らが山を降りるべきか、まだ留まるべきか、決めてくださいませ」
肩のとんぼが耳元でささやいた。
「王さまのお思いの通りに」
ぼくは空を見上げた。青い空に入道雲が湧いていた。太陽はぎらぎらと上から照り付け青々とした草々は光っていた。夏の盛りだ。
赤ノ谷、黄ヶ岳、青ノ森の三匹のとんぼは歌い出した。
ドードー淵が ドードーと鳴き
ガガリ峰に ガガリ雲が流れ
バンデラの樹に バンデラの露が湧いた
山を降りるや、 山を降りるや
いざ、山を降りるや
湿原をわたる涼しい風がぼくの頬をなでていった。風の吹いたほうを見るとガガリ峰にガガリ雲が流れていた。かすかに聞こえるドードーという音はドードー淵。草の匂いにまじってかすかに香るのはバンデラの露。
唐突にぼくはわかった。夏は終わった。終わっている。
ぼくは叫んだ。
「山を降りる」
白山のとんぼと黒池のとんぼは、ひゅーんと高く昇った。昇ったところで空に大きな八の字をえがいた。残りの三匹も一緒になって回ってた。ぶんぶんと風を切る音が響いた。
その風切りに応えるように草々がざわめくと、たくさんのとんぼが飛び出した。湿原の見渡す限りの湿地からとんぼ達が飛び出したようだ。
飛び立ったとんぼ達はぼくのまわりを飛び回った。とんぼはあとからあとからやってきて厚い雲ができた。彼らの羽音と風を切る響きでぼくの耳はわんわん鳴った。
肩のとんぼがぼくの前に来た。
「王さま、それでは号令をお願いします」
「わかった」
ぼくは手を挙げた。とんぼ達はぼくのまわりに集まって空中に静止した。
ぼくは思いっきり息を吸い込んだ。
「！！！！！」
ちからいっぱい叫んだ、その途端にとんぼ達は一斉に飛び立った。急上昇するとんぼの羽音で何も聞こえなかった。とんぼ達は一気に空の高みまでのぼった。力強い羽音を響かせて湿原の上を旋回した。
とんぼの群れは空いっぱいに広がり大きな輪を作ってぐるぐる回った。後から後から湧くとんぼ達はその輪に吸い込まれていった。
飛び立つとんぼがいなくなると、とんぼの群れは輪を崩して長く広い帯になった。帯は羽音を響かせながら平野の方へ向かった。遠ざかり小さくなり点となって見えなくなった。
とんぼ達が去った方を見ていたら、肩のとんぼが残っていて目の前を横切った。そのまま平野へ向かって飛んでゆく。
「おーい」
ぼくの呼び掛けに彼はくるりとまわったようだった。そのまま高く高く昇って空の中に消えてしまった。
「街で会えるな」
ぼくはつぶやいた。
静かになった湿原を風が吹きぬけた。草の葉のざわめいた。秋が、来る。
おわり
Su
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