夜の夜
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空は真っ暗だった。空を見上げる唐一郎には風が感じられなかったが、雲がびゅんびゅん流れていて、雲のすき間から月が顔を出したり引っ込めたり。
そんな夜には街灯がやけに心ともなく灯る。こんな寂しい夜は、飲んでわけわからなくなってから帰りたいけど、ここんとこ残業続きで疲れてるし。唐一郎は帰り道を急いだ。今日は夜更かしせずに一杯飲んで早く寝よう。
陽はどこに輝いているのか、ぼんやりとした光があたりを包んでいた。
霧が出ている。霧の薄いカーテンをへだた先を、ほっそりとした娘が歩いていた。三つ編みの後ろ姿に唐一郎は思い当たる女性の姿があった。いとこの彩子だ。
唐一郎は彩子の姿を追った。声をかけると女性はふりかえった。やはり彩子だった。唐一郎は思いがけず彩子に会えてうれしかった。振り返った彩子は乳白色の霧のなかで淡い花柄模様のワンピースを着て微笑んでいた。
唐一郎は彩子の前で息をついた。
「彩子さんは歩くのが早いから」
「うふふ」
彩子は笑って唐一郎にもたれかかった。
彩子の髪からはいい匂いがして唐一郎は胸がどきどきした。
その匂いは彩子の思い出の中に唐一郎を誘いこんだ。
唐一郎が小学五年生の夏休みは母方の田舎で過ごした。そのとき彩子は高校生だった。彩子は毎日のように陸上部の練習に出かけていて昼はいなかった。夜は自分の部屋で過ごしていたので唐一郎と話すことが少なかった。
だけど、彩子は唐一郎を嫌っているわけではなかった。彩子は時間があるときは唐一郎と遊んでくれた。唐一郎はやさしい彩子が好きだった。
ある日、唐一郎がお昼にもどってくると、玄関に彩子の靴があった。彩子がいる、と唐一郎は喜んだ。急いで彩子の部屋に行くと、ちょうど彩子が着替えていたときだった。
外の強烈な夏の光にくらべ部屋の中は暗かった。窓の向こうに青空とひまわりが見えた。そして窓をバックに彩子のからだが黒い影となっていたが、なぜか、唐一郎は彩子の白い胸が記憶にあった。
その彩子が今、唐一郎の目の前であの頃のまま笑っていた。
「彩子さん、クラブはどうしたの」
「唐一郎くんがきてるからね。今日は行かなかったよ」
「ぼくがいるから？」
「そう、唐一郎くんがいるから」
彩子は唐一郎の首に腕を廻した。彩子は唐一郎の首にぶらさがるように顔を近づけてきた。
彩子さんは陸上部で、今日は練習を休んで、僕は小学五年生で、夏休みで、だけど彩子さんはぼくより背が低い、僕は子供で、彩子さんは何で僕を見上げるのだろう。
唐一郎はせまってくる彩子の白い首すじにどぎまぎしながら、一生懸命考えた。なにかつじつまが合わない。そうこうしているうちに彩子さんの柔らかい胸が唐一郎の胸に押し付けられた。苦しい。唐一郎は胸を押さえた。
「苦しいの？大丈夫？」
塙先生は心配そうに唐一郎の額に手をおいた。白くてなめらかな指だな、と唐一郎は思った。頭がぼんやりしていた。
「風気味なのに雪投げするからよ」
「えっ、雪？」
保険室のベッドに唐一郎は寝ていた。塙先生は唐一郎に覆いかぶさるようにして心配そうに見ていた。先生の胸元が見えた。
塙先生は保険室の先生だ。唐一郎はめったに保険室に行かないが、塙先生のことは知っていた。中学校一年生の時の文化祭で美人コンテストで番外優勝したのが塙先生だったのだ。体育館のステージで照れていた白衣の塙先生は、ながい黒髪を背中にまとめていた。
その塙先生が唐一郎の容態を心配していた。
「熱があるわね」
唐一郎は黙っていた。塙先生は顔をこわばらせている唐一郎ににこりと微笑んだ。
「薬あげるから、ちょっと待ってて」
塙先生は唐一郎の額を軽くつつくと、ベッドを離れて薬品の棚に向かった。白衣の背中に黒い長い髪が揺れた。
いったい何がどうなったのか、唐一郎にはわからなかった。自分は倒れて運ばれたのかな。
「あった、これね」
塙先生は、薬を見つけて振り返った。
「薬飲んで気持ち悪くなったことある？ないよね。それじゃこれ飲んで」
先生は白と赤のカプセル錠を指でつまむと言った。
「はい、あーん」
「えっ、あーんですか」
唐一郎は戸惑った。塙先生はもう一度言った。
「そう、あーん」
なんか変だと思いつつ、顔を赤らめた唐一郎は言われるままに口を開いた。
「あーん」
「あーん」
唐一郎の口に塙先生のすらりとした指が入った。塙先生の目は唐一郎の目を見つめていた。唐一郎は真っ赤になって塙先生の目を見つめていた。
「へんへえふぁはく（先生、早く）」
「んー、どうしようかなぁ」
塙先生はつまんだカプセルを放さなかった。目が楽しそうだ。唐一郎はどきどきした。どきどきが身体の奥から湧いてくる。変だと思ったがどうしようもなかった。
口を開いたままだと溜まる唾が苦しい。困った唐一郎を塙先生は楽しそうに見つめた。
「唐一郎くん、自分で薬をとってね。先生はずっとこのままでもかまわないもの」
にっこり笑った塙先生は、唐一郎に無茶なことを言った。どういう意味かわからなかった唐一郎は困った顔をした。
「舌をつかえばいいのよ」
「ふえー（えーっ）」
唐一郎は困惑した。舌を使うって、どうしよう。先生の指をなめちゃうけどいいのかな。
「唐一郎くん、はやく。薬が溶けるわよ」
唐一郎は、塙先生のうるんだ目を見て決心した。鼻息が荒くなって変だと思われたらどうしようと思ったが、静めることが出来ない。
唐一郎は目をつぶって恐る恐る舌を伸ばした。
「何してんの？」
「へっ、」
目をあけると瑞恵がいた。
「もしかして変態？」
小首をかしげた瑞恵のさらさらの前髪が揺れた。唐一郎はあわてて口を閉じた。
「真っ赤になっちゃってさ、変なの」
「いや、その、」
瑞恵はきゃははと笑った。
瑞恵は唐一郎の教え子だ。家庭教師のアルバイトをしていた唐一郎の二人の教え子のうちのひとりで高校受験を控えていた。
瑞恵は前後逆に椅子に座っていた。ふとももで椅子の背をはさむようにして、椅子の背の上に腕を組んで顎のせていた。そして笑っている。
「ねぇ、なに考えてたの？」
「なにかなぁ。ついさっきまで何か別の・・・・。そんなことは、どうでもいい。余計なこと気にしてないで次の問題やりなさい」
「気になるよお」
なるよお、と語尾を伸ばして瑞恵は言った。今日の瑞恵はふわふわのセーターに短めのスカートだった。健康的な脚がにょっきりと飛び出していて、唐一郎はあわてて目をそらした。
「うるさい。ほら机に向かいなさいな」
「あーっ、いま脚見てたでしょ。えっちー。変態だー」
「見せるほうが悪いんじゃないか。きれいな脚だとほめちゃるから、次の問題にかかれってば」
「変態ー、えっちー」
きゃいきゃい言いながら瑞恵は身体を揺らした。机に向かうつもりはまったくない。何が楽しいのだろう、と唐一郎が不思議に思うほど瑞恵は楽しそうだ。
放っといてもだめなようだ、と、唐一郎は立ち上がった。そして瑞恵の椅子をくるりと廻して机に向かわせた。
「休憩はおしまい」
「だめだよ、まだおしまいじゃないよ」
下から唐一郎を見上げた瑞恵はやけに自信ありげに言った。
「じゅうぶん、休んだでしょ。さ、次の問題を・・」
「さっき言ったよ」
「へ？」
唐一郎はまぬけに聞き返した。なにか言ったっけ。
「脚をほめてくれると言ったよ。まだほめてないよお」
確かに言ったな、と唐一郎は思った。
唐一郎によく見えるようにと瑞恵は机を押して椅子を机から離し、脚を伸ばした。まぶしかった。そして瑞恵は言った。
「ほめて」
うわ、と唐一郎は思った。
「ほめるの？」
「うん」
唐一郎はもう一度言った。
「ほめなきゃ駄目？」
瑞恵はこくっ、とうなずいた。ほめてくれなければ暴れるぞ、と目が語っていた。
唐一郎はあきらめた。そして言った。
「きれいな脚」
瑞恵はぶんぶんと首をふった。だめらしい。
「瑞恵の脚はきれい」
瑞恵はぶんぶんと首をふった。やりなおしらしい。
「瑞恵の脚は白くてきれい」
頬を染めた瑞恵はちょっと考えてから首を小さくふった。唐一郎はなんか変な気分になってきた。いつのまにか心臓が鳴っている。
「瑞恵の脚は長くて健康的で・・・」
形容する言葉がみつからない。
「柔らかそうで・・・とにかく、きれいだ」
瑞恵は真っ赤だった。ゆっくり脚をおろすと、真っ赤な顔で唐一郎を見上げた。
「じゃ、胸は？」
「む、胸ぇ」
こくりとうなずいた瑞恵は、横を向いて胸をそらした。瑞恵の胸が突きだされた。
ふくらんだ胸を見下ろして唐一郎の心臓はばくばく音をたてていた。脚をほめたらどうして胸なのかぜんぜんわからない。
「な、なんで胸なの？」
それに応えずに、黙ったまま瑞恵は目をしっかり閉じて唐一郎を待っていた。
瑞恵の息は激しくなっていた。やわらかそうなセーターにつつまれた小さめの胸が呼吸に合わせて上下している。
どうすればいいんだろう、どうすれば。唐一郎はあせった。額に湧き出た汗をぬぐおうとハンカチをさがしてポケットに手を突っ込んだ。だがハンカチが無い。あれ、あれれと唐一郎はポケットを探った。
「なにしてんの？」
とげのある声が唐一郎を刺した。
「ハ、ハンカチを・・えっ」
唐一郎はあたりを見回した。通勤電車の中、吊革が目の前にぶら下がっている。朝の混雑時間帯、すし詰めに詰め込まれていた。
「あ、あれ」
戸惑う唐一郎をにらんでいた女性は言った。
「あれ、じゃないわよ。手をどけなさいよ」
唐一郎は状況が飲み込めた。ハンカチを探す手が隣の女性の腰に当たっていたのだ。
「すいません。ハンカチが見当たらなくて」
「言い訳？」
尻上がりのイントネーションは唐一郎の言葉を否定していた。
「ずいぶん念入りに探すのね」
「いや、その、」
周りの乗客の目がふたりに集中した。
「違うんですよ」
「何が違うのか私にはわからないけど」
痴漢は誰でもそう言うわ、と目が語っていた。
きれいな女性だった。年の頃は二十代の中頃だろうか。きつめの目が唐一郎をにらんでいる。唐一郎は弁解しようにも何もできない自分を感じた。
痴漢と間違われるなんて、なんてついてない朝だ。これもハンカチを忘れたばっかりにこんな目に。でもどうしてハンカチを探していたんだろう。
「次の駅で降りてくれるわね」
女性は有無をいわせぬ調子で言った。
「降りるんですか」
「あったりまえじゃない」
それは困る。遅刻の言い訳が痴漢と間違われましたじゃ、冗談にもならない。それでなくとも主任はうるさいのに。
「私はほんとうにハンカチを探していたんですよ、あなたに当たったのは偶然なんですってば」
「・・・」
女性は黙ったまま唐一郎を見つめていた。唐一郎は困った。はぁ、と吐息をついた。すると女性の顔が唐一郎の耳元へ近づいた。そしてささやいた。
「許してあげてもいいけど」
「えっ」
「静かにして。許してあげるかわりに・・・」
次の言葉は唐一郎には信じられなかった。
「身体、触らせて」
えええ、もしかしてこの人は噂に聞く痴女か、と唐一郎はびっくりした。さらに耳元で女性はささやいた。
「わかったら、うなずいて」
唐一郎は一瞬迷った。そしてうなずいた。
「いい子」
そのささやきにむかっ、ときたが唐一郎はこらえた。
女性の手がさわさわと唐一郎の右脇腹に触れた。スーツとワイシャツをとおして女性の手のひらが感じられた。さわさわと手は動き、唐一郎はくすぐったくて、びく、と動いた。
「動いちゃだめ」
女性は唐一郎の身体に手を廻した。胸のあたりをさわさわと撫でた。押し付けられた女性の身体が背中に感じられた。胸のふくらみが右肩の下にふんわり当たってる。さらに手はさわさわと下に下がった。と、いきなり左尻が撫でられた。唐一郎はおもわず、びくっ、とした。
「動いちゃだめなの」
ささやきが耳たぶに熱かった。さわさわ、さわさわと手の動きと背中の女性のやわらかさが気もちよかった。唐一郎は興奮した。女性も興奮しているのか耳元の息が熱い。
と、
「間もなくアカバネに到着します。お忘れ物ございませんよう…」
アナウンスがあった。同時に電車はブレーキをかけた。かなり急なブレーキに乗客はよろめいた。人の波が押し寄せてくる。唐一郎は女性もろとも人の波に押しつぶされた。
「ん、んんん」
廻りの人が山のように唐一郎にのしかかってくる。ぎゅうぎゅう圧された唐一郎は、苦しかった。なんとか腕で人をかきわけようとするのだが、駄目だ。苦しい、きつい、狭い・・・
「君、大丈夫か？」
頭をつつかれた唐一郎は我に返った。あわてて身体を起こすと天井に頭をぶつけた。
「痛っ」
「気をつけなよ。このへんは低いんだから」
目の前には隣のおじさんが心配そうな顔で唐一郎を見ていた。そういえば、高校へ行くときはいつもこの辺でおじさんに会うのだった。
「苦しい、狭い狭いって、うめいてたよ、唐一郎君」
おじさんは、かがんだまま唐一郎の顔を下から見上げた。いい人なんだけど、ちょっとおせっかいなんだよな、このおじさんは。こぶの出来た後ろ頭をさすりながら唐一郎は思った。
「ちょっと気分が悪かったから。でももう大丈夫ですよ、おじさん」
と唐一郎が言うとおじさんは心配そうな顔をしたまま「気をつけなよう」と腰を屈めて去っていった。
ふぅ、と唐一郎はため息を吐いた。なんか身体が火照っているけど何も思い出せない。
唐一郎は学生鞄を確かめると屈んだまま道を歩いた。腕時計を見ると急いで行っても遅刻だった。一時限は英語だ。ヨシボウ先生にまた怒られるな、と唐一郎は思った。
このあたりの道は天井が腰くらいの高さしかないのでかがんで行くか、這って行くしかないのだ。この先は特に天井が低くて、しかも人が一人やっと這って行けるくらいの幅しかなくて、擦れ違うときにとても大変なのだ。理不尽な通学路だ。理不尽だけど通学路だから仕方ない。
唐一郎は鞄を背中にかついで道を急いだ。腰が痛くなってきたが、かがんで歩く。低い通路はますます低くなってゆき、とうとう唐一郎は這ってすすみはじめた。
狭い洞窟にもぐったような、細いヒューム管をくぐるような、そんな感じで唐一郎は進んだ。
肘と膝をつかって這うのだが、肘の端が通路の壁にあたり腰が通路の天井にあたったりして進みにくいことこの上ない。
それでも唐一郎は進んで行った。と、前方から誰かが同じように這って来るのが見えた。
女の子だった。同じクラスの鈴ちゃんだ。ぷっくりとした体つきで目の表情が豊かな女の子だ。ブレザーの制服がよく似合う。彼女の額が汗で光っている、鈴ちゃんは急いでいるようだ。
唐一郎は心おだやかではなかった。彼女は唐一郎の好きな女の子だったのだ。
なんでこんな狭いところで会っちゃったんだろう、と唐一郎は思った。しかも方向が逆だ。
女の子もすぐに唐一郎に気づいた。彼女は唐一郎の二メートルくらい先で止まった。
「おはよう」
先に声をかけたのは唐一郎だった。
「おはよう、唐一郎くん」
女の子は肘をついたまま、にこっと笑った。息をはずませていて上気した頬が赤かった。
唐一郎は訊ねた。
「忘れ物？」
「うん、今日は買い物しようと思ったんだけど、財布忘れちゃったんだ」
「今から戻ってたら遅刻だよ」
女の子は肘をずらして時計を見た。
「財布をあきらめても遅刻よ」
ころころ、って感じで鈴は笑った。
「それじゃねー」
女の子はそう言って少し這った。そして気付いた。
「ここ、狭いね」
「そ、そうだね」
唐一郎と鈴は顔を見合わせた。人ひとり分の幅しかないこの通路では、身体をこすりつけるように擦れ違わなければならない。
「ぼ、ぼく戻ろうか」
唐一郎が言うと鈴は首を振った。
「それじゃ、唐一郎くんに悪いし・・・擦れ違いましょ」
そう言うと鈴は唐一郎に近寄ってきた。どんどん近寄って三十センチ先で止まった。
「どうしよう」
「僕が背中向けるから、鈴ちゃんもそうして擦れ違おう」
唐一郎は壁に貼り付くようにした。鈴も同じように貼り付いた。そしてじりじり進んだが、肩がひっかかってしまう。
「背中あわせじゃだめだね」
「わたしが壁にくっつくから唐一郎くんがくぐってよ」
後退してふたたび身体の位置を変え、今度は鈴が背中を壁にくっつけて、あいたすき間を唐一郎が背中を鈴に向けて通り抜けようとした。これもうまくゆかない。けど、先ほどの背中あわせよりは、いい。鈴は次の提案をした。
「それじゃ向かい合うようにして、くぐり抜けよ」
後退してこんどは唐一郎と鈴が向き合うようにして進んだ。両者とも背中を壁に押し付けている。
顔と顔が擦れ違ったとき、二人は真っ赤になって顔を見合わせた。なんとなく笑った。
「変だね」
「変だよう」
くすくすわらいながら、じりじりと二人は擦れ違う。
鈴の顔が過ぎて鈴の首が唐一郎の目の前を通りぬけた。白くて細かった。次はやわらかそうなブレザーの胸が目の前を過ぎた。唐一郎はどきどきしながら進んだ。ブレザーのお腹が震えながら通りすぎるとスカートだった。唐一郎の胸は激しく鳴った。腰の当たりが一番狭かった。頭を壁に押し付けても鈴の腰が唐一郎の顔に触れた。
「きゃっ」
「ご、ごめんよ」
次は鈴のふとももだった。白いふとももが右に左に揺れながら通りすぎて行く。そして膝、ふくらはぎ、ソックスと過ぎて、最後に靴が過ぎて行った。
唐一郎の目はちかちかしていた。どきどきが収まらない。
「ふーはー、ふーはー」
唐一郎の息も荒かったが、足元から聞こえてくる鈴の息も荒かった。なんか変な気分だ。こう、暴れたいような包まれたいような。
と、
「振り返っちゃ嫌だからねぇ」
と鈴の声がした。
もし振り返れば、と唐一郎は想像した。鈴ちゃんの白い脚とスカートに隠れたお尻が見えるだろう。鈴ちゃんが言わなければそんなこと考えもしなかったのに、気になるじゃないか、と、唐一郎は思った。
鈴はまた言った。
「ほんとにほんとに、こっち見ちゃ嫌だからねぇ」
だが、唐一郎には本当に嫌がっているように聞こえなかった。
振り返りたい、という衝動が唐一郎を貫いた。急いで振り返ろう、そして鈴ちゃんを追いかけるのだ。
「ほんとに振りかえっちゃ嫌だからねぇ」
鈴はまた言った。声が気持ち小さくなったような気がする。はやく振り返らないと鈴は行ってしまう。
唐一郎は急いで振り返ろうとするのだが肘がつっかえてしまって身体をまわせない。ましてや身体をひねろうとしても壁や天井にあたって振り返れない。
もどかしい、もどかしい、手間取っている間に鈴ちゃんは行ってしまう、と唐一郎はあせった。ばたばた身体を動かしている間に通路がさらに狭くなったような気がした。
いや、通路はさらに狭くなっていた。しかも狭くなり続けていた。どんどん通路が狭くなるのを唐一郎は締め付けられる苦しさでわかった。
「く、苦しい」
唐一郎は弾力のある壁にぎゅうぎゅうと締め付けられていると思った。息ができない。
唐一郎はもがいた。呼吸できない状態でもがき続けた。必死でもがくと、突然に締め付ける感覚が無くなった。
だが息は苦しい。ゼリーの中にいるようだ。息を吸おうとしてもなにも肺の中に入ってこない。唐一郎はゼリーの中でもがいた。上へ上へと手足をばたつかせて浮かぼうとした。
その時、強い力で唐一郎は引かれた。
唐一郎は引かれ、包まれた。なにか熱いものが唐一郎の顔を覆った。それは唐一郎の唇に割り込んでくると強引に口を開かせた。そして甘いものが唐一郎の口に注ぎ込まれた。
しびれるような気もちよさだった。苦しさと快感に唐一郎は我を忘れた。唐一郎は腕をまわしてそれを抱きしめた。柔らかく熱いそれは唐一郎の包容に応えるように、唐一郎を柔らかく圧した。
もぞもぞ、もぞもぞ、と唐一郎は愛撫した。それは唐一郎に応えた。
気もちいい、抗い難い快感。
今、抱いているそれは、誰だろう。一瞬の間にたくさんの女性の顔が唐一郎の脳裏をよぎった。彩子、塙先生、瑞恵、きつい目の女、鈴。けど、他にもたくさんいたような、いないような。
だが、今抱いているそれは、その誰でもなかった。いったい誰だ、誰だ、誰だ。
頭のどこかでぐるぐると考えながらも、唐一郎の身体は快楽を求めて貫くように動き、それも唐一郎の動きに合わせた。
一番気持ちのいい一点は唐一郎のすぐ先にあるのに、なかなか届かない。その点に届け届けと唐一郎はより深く動いた。
震える糸。糸が震えている。その振幅が大きく大きく速く、より速く速くなり、最大に達した。そこは快楽が極大になる一点。唐一郎は届いた。そして発射した。
「やべ、」
ばさっ、と布団をはね上げて唐一郎は目を覚ました。
深夜の暗がりの中で唐一郎は唐一郎の腰の上に乗っているそれと目があった。
それは、微笑むと、黒い影となって部屋の隅へ飛びすさった。
いつのまにか窓が開いていて、漏れてくる月光の中にそれは立った。
長い黒髪に面長の娘。すらりとした白い身体に豊かな胸、尖った乳首。だがその下半身は栗毛の馬の下半身。
「大事に育てるわよ」
と、それは言った。そして窓から飛び去った。
何が起きたかわからずにぼーっとしていた唐一郎は、ふと自分の寝間着のズボンの中を覗いた。
「はぁ、」
唐一郎はため息をつくと肩を落とした。
−終わり−
Su
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