地球ばかり見えていた。青地に真っ白いペンキを刷毛でさすったような、はたまた、綿菓子をくるくると丸めてちぎって投げ捨てたような、そんな海と雲が視界の大半を占めていた。見てる間に景色はゆっくりと動き、視界の端から黒い領域が広がり、青と白の美しい景色が消えると地球の夜の側で漆黒の影の中に小さな灯が点々と輝いていた。影の部分は宇宙の闇にも似て、何が在るのか、それとも無いのか不安にさせた。
影の中に灯る都市の輝きは星のごとく、そこに星が在ること気づかせてくれる。灯が動き、かすかに明滅することで、目の前の視界を覆っているそれが地球であることがわかるのだ。
ジオン宇宙軍、仮装巡洋艦ローレライは地球衛星軌道を巡る。昼から夜へ、夜から昼へ、地上では十二時間おきに繰り返される出来事が、ローレライでは頻繁に繰り返された。太陽光線に焼かれ、影に入り、太陽光線に焼かれ、影に入る。その都度、ローレライ舷側の窓は眩しく暗く眩しく暗く明滅するのだ。
「あたりまえなんだが、おかしな感じだ」
窓のかたわらで朝日にあたりながら、深緑色のノーマルスーツを着た浅黒い顔の男がつぶやいた。仮装機動巡洋艦ローレライの船内休憩室は狭かったが、スナックバーと窓がある。非番の兵士や士官が集まってくる部屋だ。
「なんで？」
つぶやきに応えたのは、ノーマルスーツ姿の輝く銀の髪の女性だ。きれいな眉をよせて不思議そうな顔をしている。飲みかけのカフェ・オーレの飲料チューブが指に引っかかっていた。無重力状態だからチューブはゆっくりと回転していた。
男は窓から振り返った。彼はジオン宇宙軍のグランヒッコリ・グラーグ少尉だ。ローレライに搭載するモビルスーツ部隊のパイロットにして隊長である。グランヒッコリは、窓をこぶしでこつこつ叩いて言った。
「一日は二十四時間だろう。けど、ローレライでは一時間かからずに日が昇って暮れてしまう。地上の時間とここの時間の流れが違うはずないんだが、なんか、こっちの方が速く時間が過ぎているような気がしないか」
グランヒッコリが言い終えるのを待たずに銀髪の美女、ブーカ・ラクハン軍曹が、その形の良い唇をひらいた。
「そんなわけないじゃない。そんな風に感じるのは、日が昇って暮れることに意味があると思ってるからよ」
ブーカ・ラクハン軍曹もモビルスーツ・パイロットだ。彼女は物憂げに言葉を継いだ。
「私たちにとっては、何度も日が暮れているけど、地上では日は暮れてないのよ」
「いや、そのとおりだけど」
ブーカは口をつぐむと、グランヒッコリから視線をはずした。無表情にカフェ・オーレのチューブを口にふくんだ。そんなブーカの横顔を見ていると、グランヒッコリは何か話さなきゃと思うのだけれど、会話が途切れると頭の中が固まってしまって何も思い浮かばなくなってしまう。
「えーと」
「…」
沈黙が休憩室を満たした。この沈黙を壊さなければ。グランヒッコリは思い出したような調子で言った。
「明日は晴れるかな？」
「…晴れるんじゃない」
ブーカの声は冷たかった。グランヒッコリはちぐはぐな笑顔を浮かべた。
そのとき二人は軽い加速を感じた。船がわずかに軌道を変えたようだった。続いて休憩室のドアが軽いうなり音をたてて開き、明るく元気な声が飛び込んできた。
「ここですか、少尉」
声に続いて飛び込んできたのは、小柄な身体をノーマルスーツに包んだ娘だ。娘はティエン・シーハ上等兵。ローレライの三番目のザク・パイロットだ。
彼女は、グランヒッコリの正面で直立不動の姿勢をとった。無重力に慣れていないので身体が斜めに傾むいている。丸い顔に黒髪のショートカットがまるで少年のように凛々しい。ティエンはそのまま敬礼し、ふっくらとした赤い唇を開いた。
「ブリーフィングルームにいらっしゃらないから、どこへ行ったのかと思いました」
「…」
グランヒッコリはティエンから視線をそらし、口を開きかけて閉じた。そのまま赤くなって固まった。ティエンは不思議そうに首をかしげた。
「少尉？」
黙っていたブーカがカフェ・オーレのチューブを口から離した。
「ティエン…」
「はい？」
ティエンはブーカに顔を向け、あどけなさの残る顔に緊張をうかべた。
「なんでしょう？」
「ノーマルスーツのね」
「はい」
「ファスナーがね、あいてる」
物憂げなブーカの指摘にティエンは一拍おいて、声をだした。
「は？」
ティエンはゆっくりと首を折り、自分の身体を見やった。
ノーマルスーツは宇宙空間で簡易宇宙服として使えるパイロット服だ。身体を密閉するために上下一体となっている。身につける際は、ノーマルスーツ用アンダーウェアを着込んだ後にノーマルスーツに下半身を押し込む。腕を通し、股から首にかけて二重のファスナーを引き上げる。
ティエンのノーマルスーツは閉まってなかった。ノーマルスーツのおなかから首まで開いており、アンダーウェアにつつまれた小ぶりな胸と小さなへそと下着の一部が晒されていた。不思議なことに、軍支給品のはずのアンダーウェアの胸には可愛くデフォルメされた青いクジラの絵がプリントされていた。
ティエンは、頭の中でロッカールームから休憩室までに会った人々の姿がぐるぐる回った。注目を集めているのは新人パイロットだからではなかったのだ。まさかノーマルスーツが開いてたなんて、初めての戦闘航海なのに…。
ティエンが顔をあげると、その顔には凍り付いたような笑いが張り付いていた。ブーカはにこりと微笑んだ。ティエンは力なく笑った。
「…あは、あははははは。」
笑いながらティエンはファスナーを引き上げた。青いクジラが深緑色のスーツの中へ消えていった。
「あは、あは、あはは」
「うふふふ」
ブーカも一緒に笑った。そのかたわらでグランヒッコリはまだ固まっていた。ブーカはグランヒッコリの様子を一瞥し、右手をゆっくりとあげ、笑えとばかりに、ぱし、とグランヒッコリのうしろ頭をひっぱたいた。
オデッサ作戦の敗北から半月が経っていた。
オデッサ作戦直前、グランヒッコリとブーカはオデッサの衛星基地のブカレストに配置されていた。オデッサ作戦の終盤、木馬迎撃任務についたグランヒッコリたちの部隊は返り討ちにあい全滅寸前まで追い込まれた。運良く生き残ったグランヒッコリとブーカの二人はオデッサ陥落の報を受け、衛星基地のひとつからシャトルで脱出したのだ。
シャトルは地球軌道上で輸送船にすくい上げられ、機動要塞ソロモンに収容され、二人は命令を待った。
彼らの原隊はア・バオア・クー要塞を基地とするスピカ艦隊だが、彼らの母艦の仮装巡洋艦ローレライはオデッサ陥落前後に行われた地球軌道での作戦のために艦載モビルスーツ部隊ともどもキシリア中将配下の突撃機動軍に配属されていた。
ローレライは月軌道上のドックでモビルスーツの運用に適した改装が行われ、モビルスーツ三機の運用が可能になった。艦種も仮装機動巡洋艦にかわったが、それは砲撃モジュールが外されてモビルスーツ格納コンテナがついただけにすぎない。
新たに編成された突撃機動軍、第九八哨戒艦隊は、ムサイ級軽巡洋艦「戦狼」と仮装巡洋艦「ラプンツェル」、そして仮装機動巡洋艦「ローレライ」からなり、地球軌道の哨戒を目的として編成された。地球突入軌道上の補給船団の護衛、ルナツーをベースとする連邦軍宇宙艦艇の行動の牽制などを行う。
この頃の地球軌道は地球各地から発進する連邦軍艦艇とそれを援護するルナツーの連邦軍艦艇、地球への補給と引き上げのため往復するジオン軍シャトルとそれを護衛するジオン軍宇宙艦艇が入り交じっていた。細かな遭遇戦がしばしば発生し、敵味方入り交じる軌道上で大気圏の離脱と突入を管制する技術士官は、仕事をややこしく難しくするミノフスキー粒子に呪いの言葉を吐くのだった。
ローレライがモビルスーツと補給物資を積み込みグラナダを出撃したのが十一月の終わり頃だ。ローレライは地球を目指した。途中、機動要塞ソロモンをかすめ、グランヒッコリ達を積み込み、ア・バオア・クーからくる他の二艦を待った。
艦隊が整い、地球低軌道に入ったのが十二月初旬である。地球連邦宇宙軍は相変わらず静かであったが、抑えた静けさであることはジオン宇宙軍には解りきっていた。いずれ、連邦軍は復活した艦隊を宇宙へ打ち上げるだろう。その時はジャブローを基点とする大気圏離脱コースを巡る激戦が予想される。それが何時になるのか、ジオン軍と連邦軍の情報部が闇で情報戦を繰り広げていた。
to be continue...